写像1041〜1050

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愛子は賢が電話を掛けている間に、身繕いを調え、布団を畳み、昨夜の浴室前のタオルを整え、浴槽の湯を抜いた。それから、おもむろに麻子の遺骨の前に茶を供えて瞑目してから、座卓の前に座って賢を待っていた。
「賢パパ、電話済んだ?」
「うん。愛子、片付けてくれたのか?」
「うん、ちょっとね」
「そうか、ありがとう。じゃ、食事に行こう」
廊下から大広間まで、宿中に正月の気分を高揚させる紅白・金銀の飾り物が飾られていて、琴の六段が流れている。和室の大広間に用意されている食事は元旦を感じさせるものだった。紅白の熨斗(のし)が敷かれており、屠蘇の入った杯が添えられている食卓には、おせち料理とズワイガニの足3本、焼き魚の代わりにイボダイが用意されている。
「わあ、凄い、お正月の支度が出来てる」
仲居が寄ってきて御飯か、雑煮かと聞いた。ふたりは雑煮を頼んだ。愛子は下げてきた布袋を開いて、その中から麻子の写真を取り出し、食卓の上に置いた。
「お母さんと、一度でいいからこういうお正月をしてみたかったわ」
賢達とほとんど同時に来た4人組の家族は、2席離れた所に着席して、屠蘇で乾杯をしている。賢は仲居に頼んで、屠蘇の杯をもう一つ用意してもらった。賢はそれを愛子が置いた麻子の写真の前に供えてから、自分の杯を手にすると、愛子にも杯を取って渡し、促すようにして、「これからずっと、よろしくな」と杯を掲げた。愛子も「よろしくおねがいします」と小さな声で言った。賢はそれと同時に意識に強く押し寄せてくる自分に対する感情の波を感じた。それが愛子からの感情だけではなく、祐子と亜希子から来ているような気がした。賢はふと、実現しなかった祐子や亜希子との約束―安曇野への旅行のことを思い、ふたりに済まないことをしたと思った。愛子に目を移すと、愛子は恐る恐る舌で屠蘇を舐めている。
「愛子、感想は?どうだ?」
「一寸変わった味。でも、嫌いじゃない」
「お屠蘇は飲んだことないのか?」
「わたしの家はお正月をお祝いしたこと無かったの。暮れにお母さんがおせち料理を作ってくれて、元旦はお雑煮を作ってくれたわ。でも、お正月のお祝いのような感じじゃなかったわ。毎年お正月の朝は、ご飯の後で、前のお父さんが正月の集会があると言って、わたしたちを連れて学会の会館に行ったわ。それがお正月の行事だったの。そこではみんなでお経を唱えたりしていて、その後で、皆でお昼のお食事をするんだけど、日本のお正月といった楽しい雰囲気じゃなかった。だから、学校の友達とはお正月のお話しをしないようにしていたわ。わたし、お屠蘇も初めて。お酒でしょ。一寸どきどきする。賢パパ、飲んでも大丈夫かな?」
賢は愛子が愛らしく思えた。少し恥じらいながら屠蘇を舐め、それだけで顔を紅潮させている。ふたりは1時間ほど掛けて、ゆっくり朝食を摂った。大広間に集っているどのグループもゆっくり食事をしているようだった。朝からワインやビールを飲んでいるグループもあった。食事を済ますと、ふたりは直ぐに出掛けた。愛子は中宮寺に行きたがった。
「わたし、修学旅行で法隆寺に行ったわ。希望者が大宝蔵院のグループと中宮寺のグループの二つのグループに分かれたの。わたしは、中宮寺のグループに入ったわ。中宮寺は法隆寺の奥にある別のお寺で、そこには如意輪観音半跏像というとっても素敵な菩薩像があるのよ。今でもありありと思い出すわ。わたし、一目見た途端に感動してその場から動けなくなっちゃったの。先生に言われて、やっとの思いで本殿から出たのよ。もう一度あそこに行ってみたい」
「僕と同じだ。僕も一度あの菩薩半跏像を見て感動した。大分前の話だけどね。あの像を見ていると、まるで重さがないような感じを受ける。自分の意識まで、軽くなって浮遊しているような気がしてくる。それなのに落ち着くんだ。あれは女性像だろう。あそこは尼寺だからな。ほとんどの日本人はあの像に心が惹かれるんじゃないかな」
法隆寺までは時間が掛かった。バスは途中、ついこの間麻子とふたりで来た薬師寺を経由した。無邪気にはしゃいでいた麻子の姿が浮かび上がってきた。修学旅行の小学生が大勢いて、賢達を冷やかしたりした。それはそれで楽しいものだった。しかし、賢はできるだけ麻子に意識を集中させないように努めた。帰霊するのを妨げたくなかった。法隆寺に着いたのは10時過ぎだった。外は、身を切るような寒さだった。ふたりはバスを降りるとすぐに体を寄せ合って参道に向かった。バスの通る国道から北に向かって2つの車道が走っていて、その両側の車道の間に青松の並木があり、その中央に舗装されていない参道が南大門まで続いている。参道の突き当たりに石段があり、訪れる人たちを迎え入れる南大門の左右両脇に、両手を広げるようして延びている「大垣」がふたりを迎え入れてくれた。三間一戸の八脚門、深い屋根を持つ単層入母屋造の南大門を潜ると、参道脇の築垣(ついがき)で取り囲まれた石畳の参道が続き、奥の中門へ向かい、やがて十字路に出合う。そこから右奥が東大門、左手に西大門があり、正面が回廊で囲まれた西院伽藍の中門である。夢殿に通じる東門への参道はあまりにも遠くに感じられた。正面の中門は締まっているが、左手に折れて少し行くと金堂と五重塔のある回廊に通じる入り口がある。この日参詣に訪れている人たちはほとんど若いカップルのように見えた。ふたりはその中に混じって左方向に進んだ。小気味よかった。いつしか愛子が賢の左手に自分の右手を絡ませていた。沢山のカップルに混ざり、自分達ふたりもカップルなんだと言わんばかりだった。賢は愛子に抗わずに自然に振る舞った。石段があり、そこを上がって、受付で入場料を払って右に進むと広い空間が開けた。愛子は眼前に広がった境内をとても広大に感じた。均整の取れた五重塔と、美しい佇まいの金堂が目に飛び込んできた。世界最古の木造建造物といわれる建物だ。その奥に大講堂がある。ふたりにとって金堂が火災に遭って再建されようが創建当時のままだろうが、そんなことはどうでもいいことだった。長い間の人々の想念がもたらした静寂な、落ち着きのある空間である。愛子は薬師寺からずっと感じ続けていた麻子を、更に強く感じるようになっていた。賢もその強い麻子からの意識の流れを受け入れた。麻子が近くに寄り添っている様な、こそばゆさに似た不思議な感覚だった。金堂の本尊は荘厳だった。罪深い人々を穢土から浄土に救い上げると信じられている釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来の三体の本尊仏像の作る空間が仏教で定められた雰囲気を醸し出している。ふたりは修復された壁画を眺め、金堂から外に出た。法隆寺は大勢の参詣者で賑わっていた。それから五重塔の周りを巡り、入ったときとは反対側の回廊の端まで行くと、そこでは記念品を販売していた。賢は愛子に鈴の付いたお守りを買って渡してから伽藍の外に出た。外に出ると左手奥に東大門が見える。そこまではかなりの距離である。愛子は賢をすっかり恋人にしてしまった。さっきは愛子が大勢のカップルの真似をしたのだが、今は多くのカップルが自分達に似ているように見えてきた。東大門でもやはり入場料を払った。夢殿は外から眺めるだけだった。四方の扉が開いていたが、覗いてみても特に驚くほどのことはなかった。夢殿はそこに存在しているだけで素晴らしかった。入り口の説明書きに、「秘仏救世観音像を安置したこの八角形の建物では「十一面観音悔過」とよばれる法要が行われる」と書いてあった。
「ここでも十一面観音さまを讃える行事をおこなっている」
愛子は長谷寺と東大寺の二月堂を思い出していた。
「わたし、十一面観音様のことを思うと、身体が温かくなってくるような気がするの。何だか、幼い頃お母さんに抱かれている自分の姿が、今の自分に重なってくるの」
「おまえのお母さんがその観音さまなのかも知れないな。知らない内に十一面観音に関係したところに来ているしね。慈悲の象徴だ。きっとお母さんは永遠の愛でお前を慈しんでいるんだよ」
愛子の目が潤んだ。賢も身体の底の方から熱いものが突き上げてくるような感覚を覚えた。たとえ仏教の教義が何を教えていようと、観世音菩薩の慈悲は図り難いものであることに変わりは無い。ふたりは感慨を覚えながら中宮寺に向かった。ここもやはり入場料を支払わなければならなかった。正月なのに寺男が本堂の周囲の堀を清掃している。その回りをぐるりと廻って、本堂への木の階段を上り中に入った。拝殿には既に大勢の人たちが正座していて、思い思いに如意輪観音半跏像に見入っている。中には両手を合わせて瞑目しているものもあった。音を立てるものは一人とてなく、静寂な空間だった。突然愛子が言った。
「お母さんよ。あの仏様、お母さんよ」
周囲のものが一斉に愛子の方を振り向いた。ふたりは恥ずかしそうにしながらも人々に附いて中に入った。拝殿では最後尾に席を取って、ふたりはそこに腰を下ろした。確かに亡くなった後でふたりの前に見せた麻子の姿にはこの如意輪観音像の雰囲気があった。女性の慈愛に溢れた姿だった。賢は如意輪観音像を見つめた。じっと見つめていると、この像がこの実在の世界と虚存在の世界に跨って(またがって)存在しているように見えてきた。意識を活性化させて生きると実存在と虚存在の両方を見通すことができることが、賢には次第に分り掛けてきている。その意識とは一体何なのだろうと思った。意識とは魂、即ち自分自身のことなのだろうか?この如意輪観音半跏像が現実界に生きるものにそれを伝えているように思えてきた。以前この像を目にしたとき、もしかしたらこの像には重さが無いのではないかと思ったが、それがまさに虚存在として同時に、ここにあることを物語っているようだった。だから愛子にはこの像が麻子に見えたのだと思った。賢は愛子の耳元で囁いた。
「あれはお母さんだよ、だけど、いつかおまえ自身にもなる」
愛子はきょとんとしていた。次第に人が前方ににじり寄って行き、10分ほどすると賢と愛子は最前列にまで出ることができた。最前列で、如意輪観音像を見つめている愛子の目から涙が溢れ出てきた。愛子は声を抑えて泣き崩れた。賢が愛子の肩を抱き寄せて、ハンカチで愛子の涙を拭ってやった。愛子は音を立てずにしゃくり上げながら、泣き続けた。賢がふと視線を菩薩像に移すと、そこには麻子が微笑んでいた。菩薩像と同じ姿勢で愛子と賢に微笑み掛けている。愛子はこの拝殿に入った時から、麻子の姿を見ていたのだと分かった。賢は自分たちが別空間に移ったことを知った。愛子も涙に濡れた目で麻子を見つめている。麻子が話し掛けてきた。
「わたしはいつもあなたたちふたりと一緒に居るのよ。指導霊とおっしゃる方がどこからともなくお見えになっておっしゃっていたわ。自分というのは生前の肉体でもなければ、死後の霊体でもないんだって。本当の自分は目覚めて、意識している自分で、それは肉体や霊体とは独立したものなんだって。思ったり、考えたりしているのも本当の自分じゃないんだって。意識を目覚めさせているとき、総てに気付いているのが自分自身なんだって。あなたたちが今見ているわたしの姿も本当のわたしじゃないわ。如意輪観音像に姿を映したわたしの映像なの。優しく叡智溢れたあなた、あなたなら分かってくれるでしょう。愛子にはまだ少し難しいかもしれないけど。おとうさんから教えてもらいなさい」
そう言うと麻子の姿はすっと消えて、元の如意輪観音像だけが半跏の姿で鎮座している。愛子の意識も現実界に戻っていた。賢は愛子に視線を向けた。愛子と目が合うと、意識が戻っていることを確認し、軽く頷いて立ち上がった。30分ほど経っていた。拝殿はまだ大勢の人で一杯だった。ふたりは歩きながらも、暫く美しかった麻子の姿と、まだ心に響いている言葉の余韻を味わっていた。ふたりが旅館に戻ったのは午後5時過ぎだった。中宮寺から途中慈光院に寄り、そこで一時(ひととき)を過してから、宿の近くの東大寺の大仏殿に寄って戻って来た。奈良の都は艶やかさはないが、社会が多様に変化して行く長い時の流れの中で、それを達観しているような安定感を感じさせてくれると賢は思った。宿の旅行案内に中宮寺の如意輪観音が十一世紀に創設されたと書いてあったが、何故か大自然から生まれ出ずる慈悲の心を味わったような気がした。それはずっと昔に意識の表舞台から姿を消した人間の本質だと思った。ふたりは一旦部屋に戻って、直ぐに浴衣に着替え、大浴場に出掛けた。賢は湯船に浸かると、いつものように一日の省察と瞑想を始めた。感情の起伏の少ない穏やかな1日だった。一通りの省察を終えると、愛子の今後のことを思案した。東京で、安寧に過ごさせる為にはどうしたらよいかを考えた。それからしばし、愛子の思いに意識を集中した。すると次第に、賢の眉間に、今いる湯船とは異なる湯船が映しだされ、窓越しに2本の松と10本ばかりの赤い実を付けた万両の子株が浮かんできた。その向こう側に竹垣がある。それは明らかにこの男湯の窓の外に見える竹林の庭を形作ったものとは異なっていた。その映像は次に、湯船の中の2人の女性の姿を捉えた。若い2人の女性だったが、2人とも直ぐに湯船から出て行った。そして、また2人の女性が湯船に入って来た。その中の一人の女性が近付いて来て、そこでイメージは途切れた。賢は愛子の意識に連結して、愛子の周りの景色を見ていたのだということが分かった。賢はこれは亜希子が青森で行った透視とは異なるものだと思った。この世界が写像の世界であるなら、自分の中にスクリーンを設ければ、そこに自分が視たいと思う場所の情景を、他人の意識を介さずに、映し出すことが可能なはずだと思った。問題はそのスクリーンをどの様にして作ればいいのかということだ。戯れに考えを巡らせてみた。賢ははっと気が付いた。そのスクリーンはこの実世界に作るのではなく、虚空間に作るのだと思った。やはり、実世界から虚空間を覗き観ることができるか否かが、ポイントになると思った。そしてそのスクリーンについては原に相談してみようと思った。賢が男湯の入り口の引き戸を引いて外に出ると、既に愛子が湯から上がって待っていた。
「お風呂はどうだった?混んでなかったか?」
「ううん。わたしを入れて5人だった。でも直ぐ2人出て行ったから、そのあと3人だけになったの。小母さんに話し掛けられたわ。わたしが、どうしてお正月に奈良に来たのかって」
「で、何て応えた?」
「骨休めって言ったの。そうしたら、2人の小母さんが大笑いをしたの。わたしとっても恥ずかしかったわ。本当のことなのに」
「きっと、元気そうな少女が、骨休めなんて言ったので可笑しかったんだろう」
「そうみたい。だけど、本当のことなのに・・・・・だから、「お母さんが亡くなって、大変だったので、その骨休めなんです」って言い直したら、2人ともぴたっと笑うのを止めて、「それは、大変だったわね。笑ったりしてごめんなさいね」って。わたしもつい、涙ぐんじゃった。でも、それからは小母さん達、わたしから遠ざかってしまったの」
部屋での食事が済んだのは7時半過ぎだった。特別メニューとして万葉粥が添えられていた。仲居は万葉粥も小皿に入れて遺骨の前に供えてくれた。その晩は愛子は穏やかに自分の床で休んだ。しかし、賢は真夜中に愛子の苦しそうな呻き声で目を覚ました。あまりにも苦しそうなので、愛子を揺すり起こした。愛子は目を開けると怯えたように布団に包まって震えだした。
「愛子、どうしたんだ。何か怖い夢でも見たのか?」
愛子は震えながら、布団にうずくまったまま言った。
「鬼が斧を振り翳して追い駆けて来たの。周りにいる人たちを次々に斧で斬り倒して迫って来るの、怖かった。・・・・・賢パパ、そっちに行ってもいい?」
「おいで」
愛子は直ぐに賢の床に潜り込んで、賢の胸に頭を埋めた」
「怖かっただろう。もう安心だ、僕が付いているから」
「うん」
愛子は暫く眠れずに、もそもそ身体を動かしていたが、賢が肩を抱きしめてやると、いつしか眠りに落ちた」
和歌山に戻ると、ふたりは先ず警察署に寄った。担当の警察官が、愛子の無事と賢の住所や氏名などの確認を行った。警察署では、賢に麻子との関係などを聞こうとしていたようだが、賢は四月に愛子共々自分の籍に入れるつもりだったとだけ説明し、詳細の説明を逃れた。五日までに全ての手続きを済ませて帰京しなくてはならない旨を説明し、解放してもらった。警察官は愛子だけを別室に呼んで、賢や中川恭一のことについて30分ほど聞いた。その間、賢は待たされたが、待っている間に高齢の警察官から中川恭一の怨恨の原因について執拗に尋問を受けた。賢はただ、中川恭一の麻子に対する暴力から麻子を守ろうとしたことだけを述べた。警察官も賢の受け答えに、付け入る隙を見いだすこができなかった。一時間半ほどで漸く警察から解放されたふたりは、もう一度愛子の学校に立ち寄り、挨拶をすることにした。学校には当直の教師しか居なかったので、校長と担任に謝辞を伝言して、ふたりはそのまま和歌山駅に行き、阪和線の特急で新大阪に向かった。愛子は骨壷を膝の上に載せ両手で抱きかかえ、口を結んだままじっと外を見ている。放心したようなその視線は空間に固定されて、移り行く木立や家並みを見ているのではなかった。新大阪駅で新幹線に乗り継ぐときも愛子は一言も話さずに賢の後に従った。新幹線の指定席は東京に戻る帰省客でほぼ満席に近かった。賢は愛子を窓際に座らせると、トラベルバッグを荷物棚に置いた。愛子は骨壷と一体になったようにそれを抱え込んでいる。賢は愛子をそっとしておくことにした。豊橋を過ぎる辺りで、愛子は瞼を閉じ、そのまま眠りに落ちていった。賢は目覚めていた。静岡を過ぎた頃、席を立ってデッキに行くと、祐子に電話を掛けた。祐子は直ぐに応答した。
「あなた、待っていたわ。どうしていたの?いま、どこから?」
「新幹線の中からだ。静岡を過ぎたところだ。元気だったか?」
「うん。だけど、寂しくて死にそうだったわ。ねえ、のぞみ?」
「うん、のぞみだ」
「わたし、迎えに行くわ。必ず行くから、JRの連絡口の改札を出たところにいるから」
「うん、わかった。あっ、それから、愛子さんを連れて来たんだ。自分の養女にすることにしたんだ。詳しいことは後で話すよ」
「わかったわ。待ってる」
電話を切って席に戻ると、愛子が不安そうにきょろきょろしていた。
「目が覚めたな。ちょっと電話して来たんだ。どうだ、気分は?弁当を食べようか?」
「うん。賢パパ、わたし何となく心配で、これからどうしたらいいのか不安で」
「僕を信じて任せておけばいいよ」
そういうと賢は荷物棚にあるトラベルバッグの中から駅弁と、ペットボトルの茶を2つずつ取り出し、自分の席の上に置いた。
「愛子、僕がお母さんを抱いているから、先に食事をしなさい」
愛子は黙って頷くと、ずっと抱いていた骨壷を、まるでガラス細工の入った箱でも扱うような手つきで賢に渡した。賢は骨壷を受け取ると簡易テーブルを下して一旦骨壷をその上に安置し、弁当2つ、そしてペットボトル2つを順に愛子に渡してから、テーブルを戻し、骨壷を膝の上に載せて抱えた。愛子はペットボトルを二つ窓の欄干に置き、二つの弁当をテーブルに並べて置いた。それから、両方とも紐を解いて蓋を開けた。一つの弁当は鶏のから揚げとえびのムニエル、もう一つの弁当は幕の内である。
「賢パパ、どっちが好き?」
「愛子、自分の好きなほうを食べなさい」
愛子は箸を取り出すと、幕の内弁当の白身魚の煮つけを摘まんで、賢の口に持っていった。賢は「ありがとう」と言ってそれを頬張った。それから愛子は賢が魚を飲み込むのを見計らって、ご飯を摘まみ、また賢の口元に持っていった。
「僕は、後でいいから、自分が先に食べなさい」

門前仲町2
賢達が東京駅に着いたのは午後2時過ぎだった。JRへの通用口を出ると白いコートに身を包んだ祐子がすぐに駆け寄って来た。その後から原と亜希子がゆっくり近付いて来た。祐子が直ぐに声を掛けた。
「お帰りなさい、あなた。こちらが愛子さんね。崎野祐子、いえ藤代祐子です。よろしく。お母さんを亡くされてさぞ悲しいでしょう。お悔やみ致します」
祐子の言葉に愛子は涙を浮かべた。亜希子も祐子に続いて、
「賢さんお帰りなさい。愛子さん、はじめまして、藤代亜希子と申します。愛子さん、大変でしたね」
とだけ挨拶した。原は真剣な眼差しでじっと東京駅の雑踏の中の4人を見つめている。
「愛子と申します。よろしくお願い致します」
愛子は骨壷を腰元まで下げて丁寧に頭を下げた。3人は目に涙を浮かべながら骨壷を抱く愛子の姿に、次の言葉を見失ってしまった。
「みんな、元気だったか?大分留守にして申し訳なかった。原さん、よく来てくれました。連絡できなくて済みません」
賢が原智明の方を向きながら言った。賢を出迎えるときは必ず元気にはしゃぐ祐子も、ただ「じゃ、行きましょう」と4人を促して歩き始めた。歩きながら祐子が賢の方を振り返って言った。
「食事は済ませたの?」

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