写像1051〜1060

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正月明けで人の流れが激しくなった東京駅の中を5人は祐子を先頭に歩いた。3人は三々五々愛子に話し掛けたが、麻子のことは意識して口にしなかった。賢の部屋に着いたのは午後3時半を過ぎた頃だった。部屋はきちんと片付いている。賢は「祐子と亜希子がいつも清掃していたのだろう」と思った。愛子を促して骨壷を書棚の中央に安置させると、荷物をソファの陰に置いた。
「まだ麻子さんが亡くなってから1週間しか経ってないんだ。今日は喪に服して静かに夜を過ごそう」
「そうね。でもどうして、こんな悲劇が・・・」
祐子が言った。
「みんなニュースで聞いている通りだよ。悲しいが済んでしまったことだ。もうそのことは忘れよう。麻子さんはとっても心の優しい人で、愛に溢れた方なんだ。だから死んだ後、純粋意識で描き出された世界に向かうはずだ」
そのとき、今までほとんど口を噤んでいた原がぽつりと言った。
「亡くなった麻子さんとコミュニケーションができたのですか?」
「ええ、何度か。これは、ぼくと麻子さんとの間の交信と、愛子を交えた3人の交信とあるけどね・・・そうだ、紹介するのを忘れたが、これから愛子は僕の娘になるんでよろしく頼むよ。今から区役所に行って、愛子を僕の養女にする手続きをして来る」
亜希子と原は驚いたような顔をした。祐子は黙って頷いた。
「愛子、こちらは原智明さん。お前同様一度鹿児島で失踪して、帰還できた方だ」
「はじめまして、わたしは愛子と申します。お噂は父から伺っております」
この愛子の自然な挨拶に皆同時に反応した。とは言っても、それぞれ感じたことは違っていた。祐子は咄嗟に賢の方を向いて、確かめるように賢の瞳を凝視した。自分と賢との間に、不透明なシールドが出来たような気がした。祐子が用意したオレンジジュースを一息で飲み干すと、賢は養女申請の手続きをする為に出掛けた。賢を入り口で見送った祐子と亜希子は戻って来ると、言い合わせたようにふたり揃って骨壷の前に行き、両手を合わせて黙祷した。原はソファに座ったままその場で瞑目した。瞑目を解くと原は愛子に向かって話し掛けた。
「愛子さん、さっき内観さんが言ったように僕も一度失踪しているんですが、あなたが失踪したときのことを少し聞かせていただけますか?」
愛子は祐子たちが骨壷の前に立っている間ずっと下を向いていたが、ゆっくり顔を上げて、原を見据えるようにして応えた。
「わたし、自分がどうなったのかわからないの。夕食の時、母と前の父が言い争いを始めたの。わたし、両親に仲良くしてほしかった。だってそうでしょう。わたしに命を与えてくださったお父さんとお母さんなんだもの。前の父が母を責める語調がだんだん激しくなってきて、とうとう父が切れたの。そしていきなりこぶしで力いっぱい母の頭を殴ったの。母は何も言わず、目に一杯涙を溜めていたわ」
愛子は言葉に詰まり、涙を浮かべた。原はちょっと済まなそうに視線を下に落としたが、黙っていた。一呼吸おいて愛子は途切れ途切れに続けた。
「・・・・わたし悲しくて、・・・怖くて、どこかに逃げ出したい、なんとかここから逃れたいと強く思ったの。必死になって、そのまま逃れたいという意識を保っていたら、周りにあるものがボーっとしてきて、意識が遠ざかって行ったの。その後のことは覚えていません。気が付いたら、母と今の父がふたりで優しくわたしを呼んでいるのが分かったんです。それが不思議なんです。どうしてでしょう。優しい心で呼んでいるのが分かるんですね。感じると言ったほうがいいのかも知れません。わたし嬉しくて、嬉しくて、よく前の父が連れて行ってくれた紀ノ川の畔を思い浮かべたのです。あの頃は前の父は母に対してそんなに酷く当たるようなことはなかったの。意識がはっきりするとわたしは紀ノ川の堤に戻っていたの。急いで家に帰ったわ。でも、どうやらわたしが失踪してからの父の荒みようはただ事じゃなかったみたいなのです。何かといっては母を・・・・・・・」
そこまで言うと愛子は言葉に詰まってしまった。目からは大粒の涙が流れ落ち、愛子は声を殺して咽び泣いた。祐子と亜希子は慰める言葉も見出せずにただ愛子をじっと見つめていた。原は愛子を苦しめてしまったことを悔んだが、今は愛子を元気付けるしかないと思い、話題を変えようとして話し始めた。
「辛いことを聞いてしまってごめんなさい。僕には父も母もおりませんから、愛子さんの気持ちを十分理解できたかどうか分かりませんが、やはり意識の力によって別空間に移動したとしか考えられませんね。今度は僕が失踪した時のことを少し説明します。・・・・僕は誰か第3者の意思によって強制的にこの空間から引き抜かれたようなんです。信じてもらえるかどうか分からないけど、僕は違う世界に行っていました。それは死後の世界でもなく、仏教やキリスト教の天国のような世界とも異なった、夢のような世界です。一見地球上の世界と同じような世界に見えますが、今迄多くの人たちが長い期間を掛けて取り組んでも実現できなかった理想郷とでも言える世界なんです。それは地球上の常識では全く考えられない世界でした。僕はその世界の中で、さまざまな体験をしました。でも、いつも意識だけははっきりと働かせていましたから、自分が鹿児島湾のほとりで失踪した時から帰還するまでのことをずっと認識していました。その世界に居る間、時々誰かに呼ばれていることに気付いていました。でもその呼ばれる時間が短かく断片的だったのと、僕自身がその世界に捕らわれていた為、その呼んでいる意識に同調できなかったんです。ところが、帰還の少し前に、内観さんが僕をずっと呼び続けてくれたのです。そのことに気付いて、内観さんとふたりだけの空間で会うことができました。そして、内観さんの導きで内観さんが呼んでいる空間に移動でき、この世界に戻って来ることができたのです」
それを聞いて亜希子が言った。
「わたくしも鹿児島で一度失踪して、祐子お姉さまとお母様に呼び戻していただきました。その時、わたくしは愛子さん、あなたと同じように、自分がどんな状態にあるのかわかりませんでした。その時の記憶もありません。どうして失踪という現象が起こるのでしょうか?そしてそこからの帰還ということがどうして可能なのでしょう。原さんはどうお考えですか? 教えていただけますか?賢さんはよく、わたくしたちはほかの人と違った部分を持った人間だとおっしゃいます」
「賢さんが失踪をどのように捉えているか詳しいところまでは分りませんが、大枠ではぼくと同じ認識だと思います。大前提として、この世界が自分の作っている世界だということをまず理解してください。この世界を作っている自分の意識は、同時に他の人達の意識でもあります。もっとも意識を働かせずに生きている人がほとんどですから、そういう人たちはただ与えられた世界に生かされているだけですが、生きることを常に意識している人にとってこの世界は、自分の意志でいか様にでも変えることの出来る世界なのです。とは言っても自分の意識が全体の意識の中で正しく作用できるような状態になっている場合に限りますが。僕たちはそういう世界に生きているし、また、そういう能力も与えられているんです。ちょっと1本のムービーを想像してみてください。その中に自分も登場すると仮定しましょう。自分の姿が描かれたシーンがあるとします。そのムービーを作ったのは全体意識、いわば宇宙の創造神のような存在だとします。そのムービーを見ているのは自分自身です。それがとりもなおさず本当のあなたなのであり、また、同時にあなた以外の方の本体でもあるのです。ムービーの中に描かれている世界がこの現在の世界と考えてください。今仮に第100章に自分の姿が描かれているとすると、その自分の姿の描かれている第100章を切り取ると、その第100章は全体から切り離されたものになってしまいます。その結果、そのムービーの中からは突然あなたの姿が消え、失踪という事態が起きるのです。そして、その切り取られたページを、まったく別のムービーのある章に挿入したとします。すると挿入された章のあるムービーは・・・・・・・・・ちょっとややこしいですね」
愛子がまだ下を向き、祐子と亜希子が考え込むように首を少し傾けて聞いているので原は話を中断した。亜希子が応えた。
「喩話が上手なので、わたくしは何となくですが理解できます。祐子お姉さまはどうですか?」
「原さんが話していることは分るわ。だけど、その本当の意味はよく分らない。ムービーをこの世界と仮定している所がまだよく理解できないわ」
「そう、僕たちは、時々この宇宙の中で自分の生きている姿があまりにも取るに足らないものに見えるでしょう。だから、そのムービーの切り取った章を何度読み返してみても、その章にどんな意味があるのかよく解らないでしょう。だけど、この章のシーンは1本のムービーの中のある章という役割を担っていて、この章がなければ、ムービーが成り立たないんです。この世界はあまりに複雑なので、一本のムービーや演劇に例えるのは難しいかもしれないけどね。僕はこの世界が、本当の世界の写本のようなものだと考えているんです。内観さんもそう考えているようだけど」
その時愛子が言った。
「わたし、この世界は夢の世界じゃないかと思っているの」
原はやっと愛子が顔を上げたので、声を弾ませて応えた。
「そう、そう、そういう表現もいいかもしれないな。夢の中だ。よく夢で登場した人たちが実に生き生きとしていることがあるでしょう。その夢の世界と現実の世界を逆にしてみればいいんです。そうすればこの世界が夢の中の世界に見えてくる。まあ、現実とはそんなもんだと思えばいいかもしれないんですね。ただ、夢の世界は普通の人にとっては自分の意志ではどうすることもできない世界でしょう。ところが、自分の思う通りに描き出したのが、この世界なんです。もっともほとんどの人はこの世界が自分の意思の通りに現れるということに気付いていないんですけどね。感覚というのは感情と思考が一体化してはじめて存在すると思うんです。そして更に一体化した意識によって世界は形作られてゆく。自分の意思で世界を作り上げる為には、少なくとも、自分がこうしようと考える思考とそれに向かう激しい衝動ともいえる感情が重なり一体化する必要があると思うんです。そして、それを完全に意識している必要があると思うんです。すべての人に平等にそれができるような条件が与えられているんです。だけど、誰もそのことに気付かないから、それを実現できないでいるんです」
「原さん、賢さんも全く同じことを言っていたわ。でも、今ひとつ分からないのは、もし、人類が進化して、すべての人が自分の意思どおりに世界を創造ができるようになったら、この世界はめちゃくちゃになっちゃうんじゃないかしら?」
「わたしたち凡人にはそこのところが理解できないのね」
そのとき亜希子が言った。
「でも、なぜ自分が望まないことが起こったり、まったく予期していないことで幸福になるというような偶然ともいえる出来事が起きてくるのかしら。わたくしには、人生ってそのようなことの連続に思えてなりませんわ」
「それはそんなに難しい問題じゃないと思います。自分に起きて欲しくないようなことが起きてくるのは、顕在意識、潜在意識のいずれかに、常に自分がそのような状態に遭遇したくない、遭遇したら何とか逃れたいという意識があるからだと思うんです。その意識のずっと続いている流れに感情のエネルギーが同化するとそのような嫌悪すべき状況を顕現させて、そこから逃れようとする自分を実体化するのだと思います。分かりますか?素晴しい出来事が降って沸いたように起きてくるのも、同じことなんです。いつも何か素晴しいことが起きるような気がしていたり、それを受け入れる心の準備をしていると、そのような状況が必然的に起きてくる。特にそれが実現した時のことを具体的にビジョン化しているとその通りの状況が生まれ易くなるんです。だから幸運は降って沸いてくるんじゃなくて、自分でお膳立てして招き寄せているんですよ」
3人は文字通り話に夢中になった。祐子と亜希子は原の話が賢の話とほとんど変わらないと感じ、その安心感から自分たちの生き方や考え方を原に説明し、賛同を得ようと試みた。原はそれについて、肯定も否定もしなかった。ただ、自分の希望を実現させる為には「祈り」が必要だと言った。祐子はその「祈り」という言葉の意味を捉え切れなかった。その言葉の響きがどうしても「神頼み」的なニュアンスを感じさせるので、拒絶したいような感覚を覚えた。祐子は深く深呼吸して、愛子の方を伺った。そして、いつの間にか愛子がいなくなっているのに気付いた。
「ねえ、愛子さん、どこに行ったのかしら?」
亜希子も愛子の姿が見えないことに初めて気付いた。
「彼女なら、さっき、そっとドアを開けて出て行ったよ」
祐子がちょっと不機嫌そうに言った。
「どうして言ってくれなかったの?どこかに行ってしまったらどうしよう」
「いや、大丈夫ですよ。彼女には自覚がある」
「どうしてそんなことが言えるの?彼女、お母さんを亡くして絶望のどん底にいるのよ。わたしたち、彼女に対して配慮が足りな過ぎたのよ。すぐに探しに行かなくちゃ」
「大丈夫ですよ」
そのときドアが開いて、賢が入って来た。
「みんな待たせたな。手続きは簡単だったけど、ちょっとスーパーに寄って来たもんで遅くなっちゃって。明日愛子を連れて、湾岸中学に行かなくちゃな」
「あなた、愛子さんが、いなくな・・・・・」
愛子が賢の後から部屋に入って来たのを見て、祐子と亜希子はほっとして、軽く溜息を吐いた。
「愛子がエントランスで俺を待っていてくれたんだ」
賢は愛子に視線を向けて会釈してから、祐子と亜希子の方に振り向いて、手に持っている紙袋を差し出した。
「酒とつまみを買って来たんだ。今日は皆で麻子さんの追悼をしようと思って・・・愛子、お前はジュースだけどな」
愛子は黙って頷いた。
「それから、今夜からのことだけど、俺と愛子は今日はビジネスホテルに泊まろうかと思うんだ」
「僕がホテルに泊まりますよ」
原の言葉が終わるか終わらないうちに祐子が言った。
「この間のように簡易ベッドを借りればいいのよ。わたしが手配してあげるわ。その方が効率的でしょう。久し振りに帰って来て、いろいろ整理しなければならないこともあるでしょう」
「祐子、そうしてくれるか?できれば今夜は皆と一緒に居たいしね」
祐子は手際よくレンタル業者に電話をし、すぐに寝具2式を手配した。賢は改めて祐子の機転に感心した。それから全員で夕食の用意をした。亜希子がピザとサラダを用意し、祐子があさりの酒蒸しを作った。食事はディナーテーブルの上に用意された。椅子がひとつ足りなかったので、賢が寝室から、スツールを持ち出して来た。賢は先ほど買って来た白ワインとグラスを食卓に用意した。向かい合って無言でソファに座っていた愛子と原は誰が見ても「どうして動かずにいられるのか」と思うほど、身動きせずにじっと中空を見つめていた。食事の支度が整って祐子の合図で全員が食卓に着くと、賢はスツールから立ち上がり、食器棚から皿を1枚持って来た。食卓に乗っているピザの一切れを取るとその皿に載せ、更に自分のサラダから半分ほどをピザの脇に添えた。祐子、亜希子、原の3人は賢のしている行動をじっと見ていたが、愛子は席を立ち、黙って骨壷の前に行った。賢は愛子の後を追うように骨壷の前に行き、ピザを盛った皿をそこに備え、両手を合わせた。愛子も同時に両手を合わせた。ふたりが席に戻ると、祐子と亜希子が同時に
「ごめんなさい、気が付かなくて」
と言った。そこで全員、5分間の黙?をすることにした。黙?の終了の合図は原が行うと言った。黙?を終えると、賢が原に向かって言った。
「どうして瞑目していて、5分間の経過が分かるんですか?」
「時間は自分が作り出していますから、今のリズムの取り方を瞑想中にバックグラウンドで動かして、5分のカウントでレスポンスが返るようにしただけですよ」
「原さん、そんなことができるのですか?」
祐子が聞いた。
「誰でもできると思いますよ。朝何時何分に起きようと思って床に就くと大体その時間に目が覚めるでしょう。それと同じことをするんですよ。自分の意識を完全にコントロールできれば、容易いことです。ただ、時間は自分が作っているという認識がしっかりできていることが前提ですがね」
「原さんって凄いですね。きっとわたくしたちと頭の構造が違うのね?」
亜希子も感心して言った。皆の話を聞いていた賢がさらりと言った。
「食事にしよう」
賢は先ず愛子のグラスにオレンジジュースを注いでから、白ワインのボトルを開け4人のグラスに注いだ。そして全員が「いただきます」と声を合わせた後で、すっと立ち上がると、自分のグラスを持って骨壷の前に行き、それを備えながら小声で言った。
「麻子、ワインだ。まだ、この世界の感覚を認識できる可能性があるからトライしてみろよ。ちょっといいワインだぞ」
自分の席に戻ると、何事もなかったようにピザに手を伸ばした。亜希子が立ち上がって食器棚からグラスを一つ持って来て、黙って賢の前に置きワインを注いだ。賢はそれを手に取ると、「ありがとう」と言って一口飲んだ。
「麻子さんはお酒が好きだったんだ・・・と言うか、お酒に馴染んでしまっていたと言ったほうがいいかもしれないけどね。ワインはあまり飲まなかったようだが、今日は口あたりのいいワインだからきっと喜ぶだろう。まだ、意識はここにあるかもしれないよ。愛子が居るからね」
ピザを齧ってから、ジュースを一口飲むと愛子が言った。
「お母さんは、事故で亡くなりましたが、亡くなるときはまるで喜びの中に浸っているかのようでした。父を愛していました。わたしとしては苦しいのですが、前の父との荒んだ生活から立ち直れたのも、みんな父のおかげです。母はよく、自分はいつでも死ねると言っていました。ただ、わたしのことが心配だから頑張らなくちゃいけないと。亡くなる直前まで父のことを想い続けていました。わたしに「お母さんは、賢さんに会う為に生まれてきたのよ」って何度も言っていました」
ここまで話すと、愛子は目に涙を一杯溜めて、下を向いてしまった。賢がポケットからハンカチを取り出して、愛子の目頭を拭ってあげた。それを見て祐子が言った。
「お母さん、賢さんのことをそんなに深く愛していたの?」
「すべてを捨ててもいいほど父を愛しているので、もう自分の命は惜しくないと言っていました。あんなふうに喜びに満ちた母を見ていると、わたしまで嬉しくなっちゃって。初めて父に会って、その深い愛を知ってから、母は父と再び会える日だけを夢見て生きていたようです。亡くなる前に父が来てくださって、母は咽び泣きました」
原が言った。
「愛を持って、死を成就したのだから、お母さんはこの世界に生きたという証を残したよ。お母さんは完全にこの人生を生き切ったんだ」
祐子は嫉妬に似た複雑な気分だった。しかしそれ以上に麻子の愛の深さに感動を覚えた。そして、愛子に向かって言った。
「生きたれば 恋することの 苦しきを 猶命をば 逢ふにかへてん・・・拾遺和歌集にある歌よ。そのままね。わたしにもできるかしら」
亜希子が言った。
「お姉さま、わたくしも今、同じことを思いましたの。麻子さんのように激しく愛に燃えながら命を全うしたいですわ」
賢はただ黙って聞いていた。賢にとって祐子も亜希子も、そして既にこの世に居ない麻子も別々の個性を持った存在ではなかった。いずれの女性に対しても自分の全てを賭けて愛し続けていた。そのとき賢の携帯電話が鳴った。食事の席を立つと賢はリビングルームのソファの陰から携帯電話を取り出し、窓の外に視線を投げながら応答した。
「もしもし内観です」
「由美よ。あなた、やっとチャンネルを開いてくださったのね。わたしがどれほど寂しかったか分かるかしら。あなたに会いたい。お友達と一緒に食事をなさっていたでしょう。わたしは今部屋に居るの。あなたの写真を見つめていたら、あなたの意識に繋がったのよ」
「元気か?」
「ええ、あなたが元気なら、わたしも元気よ。これから会えないかしら?」

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